を閉じる音が聞こえた

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はい」
女は椅子《いす》にすわったまま眼のあたりに手を当てている。
パチン、とハンドバッグを閉じる音が聞こえた。コンタクト・レンズを仕舞《しま》ったのだろう。
木原には�○・○六�という視力がどれほどのものかわからない。
椅子《いす》から立った女は、はなはだ心もとない身振りで歩いている。視力はかなり不自由らしい。
女が衝立《ついた》ての陰に隠れるとき、木原は初めて正面から女の顔を見た。横顔で想像したよりもっと美しい。眼差《まなざ》しが澄んでいる。鼻梁《びりよう》がおだやかに伸びている。頬骨《ほおぼね》のちょっと張っている様子も愛くるしい。唇は情事のときを連想させるほどに、ちょっと淫《みだ》らに脹《ふく》らんでいた。
女は木原の視線に気づかない。浴衣《ゆかた》に着換えると、たどたどしい足取りで手術室に消え、木原が呼ばれてそこへ入ったときには、もう全身麻酔をかけられて意識がなかった。
手術台の風景は無惨であった。
脚を開いたままの姿勢で固定されている。隠微な部分が海の生き物のように口を開いている。眼を閉じている顔が美しいだけに一層いたいたしい。
めったに人前に晒《さら》される姿ではなかったが、少なくとも女はみんなこんな形状のものを持っているはずだ。それがたまたまあらわにされただけのことなんだ。この手術室では、ごく、ごく日常的な姿なんだ。医学書の中の解剖図を見るように、肉体の一つの断面がそこにある——そんな意識が木原の中に宿り始めた。
「周囲を糸で縫うだけなんですがね」
ドクトルは独り言でも言うように呟《つぶや》き、手術用の針と糸を取って、褶曲《しゆうきよく》の内側を縫う。
その手ぶりから判断して——たとえて言えば——小物入れの袋に紐《ひも》を通す作業に似ているように思えた。
周囲にぐるりと糸を通し終えたところで、その両端をチョン、チョンと引っ張る。ドクトルは内奥の部分に指を差し入れ、緊迫のぐあいを確かめる。ここらあたりが、この手術の奥義《おうぎ》なのかもしれない。
神秘な部分は、この瞬間に体の他の部分と少しも変わらない肉ひだと化し、糸の力に引かれて物理的に、力学的に収縮する。肉の色はほのかに白ずんで、内臓の切り口にしかすぎない。
「まあ、こんなものでしょう」
ガーゼで拭《ぬぐ》って、手術は簡単に終わった。
女は静かに眠り続けている。
その夢の中になにを映しているのだろうか、と木原は思った。
木原はこの体験を克明に書いて、月刊誌に売り込んだ。
なにほどかの稿料を得たが、それをなんに使ったか。思い出すこともできない。
しばらくのあいだは、手術室の風景が頭にこびりついて離れなかった。道を歩いているときにも、忽然《こつぜん》とそれが浮かんで来る。若い娘を見ると、それが甦《よみがえ》って来る。
——あの娘ももしや——
と、唐突な連想が心に昇って来る。
ことさらに懐疑的になることもなかったが、人はそれぞれにどんな恥部を心の中に隠しているかわからない、などと、そんな感慨がしばらくは木原の意識から離れなかった。
そうした意識もいつの間にか消え去り、体験そのものの記憶も稀薄《きはく》になった。
もうすっかり忘れていた、と言ってもよかった。
ところが、コーヒー店で——絵里花の店先で、貝崎の妻を紹介されたとたん、二年前の出来事がなまなましく、脳裏《のうり》に戻って来た。
——あの時の女だ——
貝崎の妻は、特徴のある大きな眼差《まなざ》しで木原を見つめ、軽く小首を垂れて挨拶《あいさつ》をしたが、その表情にもはっきりと記憶があった。稜線《りようせん》のまっすぐな鼻にも、かすかに脹《ふく》らんだ唇の形にも、そして目の下の泣きぼくろにも、あの時の印象が残っていた。
——こんな偶然もあるんだなあ——
と、驚かずにはいられない。
もとよりだれかに口外すべき性質のことではない。
女にとってもいまわしい記憶だろうが、木原にとってもあまり結構な思い出ではなかった。身すぎ世すぎのために、けっして見てはならないものを無理に見てしまったのだから。
貝崎の妻にはその後も何度か会った。
貝崎には、それ以上にたびたび会った。
そのたびに同じ記憶が心に戻って来る。払っても払っても眼の底に甦《よみがえ》って来る。
二人はあの瀟洒《しようしや》な高台の家で仲むつまじく暮らしているらしい。
結構なことではないか。
ドクトルの説教通りに、彼女は新しい人生を掴《つか》んだのだろうか。
察するに、女が貝崎とめぐりあったのは、あの手術の数か月前。たしか見合いのようなものだと言っていたっけ。
良縁であった。
女は過去の男性関係をきれいさっぱりと洗い流して、この結婚に飛び込んでみようと考えたのだろう。
ただ、同棲《どうせい》までやった

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