の町が薄利多売で成

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飲みたい人はご随意に、というわけで、客が勝手に持ち込む分には、当局も店に税金のかけようがない。
ここでのきわめつきは、カニであった。何という種類か知らないが、カニを甲羅《こうら》のまま大まかにたち割って、たぶん、高熱の油で炒めながら、軽く味つけしたものである。これが、山盛りでくる。カニが貴重品に属する日本からの客は、この一皿で、接待を喜んでくれたものであった。
百軒やそこいらではきかないチャイナタウンの中国料理店の経営は、おおむね一家けん族で支えられている。そして、そのうちの何軒かは二十四時間営業である。
週末の夕方になると、店々に、順番を待つ客の列ができる。それは、この町が薄利多売で成り立っていることの証明であって、親子、きょうだい、その配偶者と、大家族の成員が総出で、油にまみれながら築いたのが、チャイナタウンの今日の繁栄なのである。
ここから先はちょっと理屈に合いにくいのだが、彼らの客になるたび私には、うしろめたさというか、申しわけなさというか、複雑な思いがまとわりついた。

一言でいうと、彼ら華僑《かきよう》にくらべて、総体としての日本人は、えらく率のいい商売をしている。カメラだか、テレビだか、自動車だか、要するに付加価値の高い工業製品を生み出して輸出し、世界の外貨をかき集めているのである。

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もちろん、その根底には労働があって、そこから生まれた製品を納得ずくで売買して利潤を得ること自体、世界のだれに向かっても恥ずべきことではない。
だが、日本人である私が、現実に客として、店で働く中国人と顔を合わせ、彼我のあいだに、同じ貨幣の、しかし極端な重みの違いを発見するとき、落ち着かない気分にさせられる。私のそうした気持ちを、助手に“犯罪者意識”と説明したが、若い彼には理解がつかなかったらしい。店がその値段でいいというのだから、いいではないか、というのである。理屈は、まさに、その通りなのだが。
その私が、日本料理屋に行くと、今度は被害者意識にとりつかれるのであった。いくらかのはずみをつけていえば、ニューヨークの高級日本料理店の値段は、犯罪的でさえある。
それにもかかわらず、店がつぶれるどころか、逆に増えているのは、なぜなのだろうか。
私がいたころ、マンハッタンの日本料理店は約五十軒であった。それが、今度行って見ると、百五十軒以上にふくれ上がっている。
そこには、日本食の方がどうしても日本人にふさわしいという、抜きがたい食習慣があるのだろう。高いとは思いながら、ついつい、日本料理店に足を向けてしまう。
だが、それも、フトコロが許してのことである。意外に思うだろうが、ニューヨークの駐在員たちは、アメリカ人も羨《うらや》む高給取り揃いなのである。
Nレストランで昼食をともにした彼の働く商社は、現地法人の組織になっているが、四百五十人の社員の中、本社派遣がざっと三分の一を占めている。残りは、アメリカ人ということになる。
現在、駐在員の給料は、社歴、年齢による開きはあまりなく、月に手取りで千五百ドルから千六百ドルである。
「アメリカ人が給料を話すときには、グロス(税・社会保険料込み)が普通ですね。われわれのネットで千五百ドルというのは、グロスに直すと、年俸五万ドルに相当します」
と、彼は誇らしげにいう。
いくら税率の高いアメリカでも、五万ドルの年俸が、実質では月当たり千五百ドル程度にしかならないというのは、何かの間違いではないかと思ったが、彼がいうのだから、そんなものなのかも知れない。
年俸五万ドルときけば、大概のアメリカ人は、彼を尊敬するであろう。
たとえば、チェース・マンハッタン銀行には二万二千人の社員がいて、年俸五万ドル以上をとるのは、わずか八十人しかいない。三十歳そこそこの駐在員が手にする報酬は、ニューヨークのエグゼクティヴ級なのである。
「四百五十人の社員のうち、百何人かが五万ドルの年俸では、アメリカの会社なら完全にパンクですね。うちなんかは、少ない人数の割に、年商をかなりの線あげているから、やっていけるのですが」
彼はそういうのだが、それにしても、日本人がアメリカ人以上の高給取りになっているニューヨークでの現実は、私をひどく不安にさせる。

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