新宿の中心へ向うと

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銀行はもう営業している。
そして、銀行の前を通るたび、栄介はくすぐったい気分にならざるを得ない。そこの金庫に自分の金が一千万円あるのだ。
仕事はじめのその月曜日は、午前中でおわりであった。会社を出て、あてもなく新宿の中心へ向うと、着飾った若者たちがぞろぞろと歩いていた。
栄介の背広は古びていて、実を言えば上着のポケットには穴があいていたし、ズボンの尻《しり》の縫い目がほころびて、何度も自分で縫い直してある。
だが、もうどんなおシャレでもできるのである。
栄介は振袖を着てかたまって歩いている娘たちに追い越されながら、ああいう着物だって誰かに買ってやれるのだと思った。
いったい自分は何が欲しかったのだろうか。栄介はそれを考えてみた。
たしかに車は欲しい。買いたいものの筆頭は車だ。だがいったい、どんな車が欲しいのだろう。自分に必要な車種は……。
そう考えると、せいぜい軽四輪といったところに落着いてしまった。
一千万円持っているわけだが、車の中にはそれで一台買うのがやっとという豪華なものもある。
もちろんそんなばか高い車を欲しいわけではないが、ちょっと人目につくスポーツカーなら、何百万というのも珍しくない。
車を買えば買ったで、自由に乗りまわすためには、やはり金がいる。奮発して三百万円の車を買ったとすると、その車が楽しめるのは、残りの七百万円が生みだす期間でしかない。
もちろん車庫もいるし、そうなればおシャレだってしたくなるだろう。
おシャレをすれば、食事だっていつもの安食堂ばかりというわけにはいくまい。
だいいち、あのボロアパートの四畳半をなんとかする必要もある。
残りの七百万円から、そういう金をどんどん引いていくと、車を楽しめる期間はそれに反比例して短くなる。
当たった一千万円を車中心に、いちばん効率よく使おうとすれば、ごく安い車を一台持ってできるだけ長くそれを乗りまわせるようにするべきであろう。
結局、せいぜい軽四輪だ。
栄介は、なぜこんなことになってしまうのだろうと思った。
一千万円で買える車が、たった一台の軽四輪でしかない理由を、また考えはじめた。
どうもそれは、自分で働いて、稼《かせ》いだ金ではないという点に原因があるようだ。
一千万円を手にしたとたん、その金はたちまちゼロをめざして減りはじめる。
それを食い止めるのは、今の会社で得ているささやかな額の給料だけである。減らすまいとすれば、今と同じような節約が必要になる。車を買えば維持費がかかるから、結局車も買ってはいけないことになる。
栄介は歩きながら白けたような顔になった。
たしかによく考えてみると、宝くじで当てた一千万円という賞金は、当たる前に思っていたほど、豊かさをもたらしてはくれないようである。
それだけの金を、何度もくりかえし獲得できるようになってはじめて、豊かさが手に入るということらしい。
しかし、だからといって同僚の山岡が言ったように、ただ一度のむなしい夢に使いすててしまうのもどうかと思われた。
これは案外むずかしい問題だぞ……。栄介はそう思った。
栄介は歩道の端に立ちどまって、デパートへ出入りする人波をみつめた。
よく晴れた日で、風もなかった。
この大勢の人々の中で、一度に使ってしまってもさしつかえのない一千万円という金を持っている者は、一人もいないはずだと思った。

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