拡大して大規模な戦闘

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関東軍司令部から『満ソ国境紛争処理要綱』案が送りとどけられたのは、まさにそのようなときであった。その内容は、国境付近で紛争が起った場合にはどう処置すべきかについての、関東軍としての独自の作戦計画案といったものである。しかもそれは、すでに参謀本部より関東軍司令部に示達してある作戦方針「侵されても侵さない。紛争には不拡大を堅守せよ」と|背馳《はいち》するような物騒な内容をもっていた。
紛争を防止するどころか、むしろ挑発するのである。
参謀本部作戦課にとって、頭が痛いこのときに、その上にソ連軍との国境紛争などとんでもない話である。小さな紛争が拡大して大規模な戦闘となる、そんな不吉なことを考えたくはなかった。当然のこと関東軍司令部の案は「認めず」ということになるはずである。ところが、そうはならなかった。なぜなのか。

島国に生まれた日本人は、国境線というものを重要視することなくきたのかもしれない。
かつてはこのあるかないかの一線の認定をめぐって、戦国大名は戦いで決着させることもあった。が、たいていは話し合いで解決し、せいぜい関所を設けるくらいで、両国の通行は比較的ゆるやかであった。明治以後、いまにいたるまで同じ県にありながら、東西あるいは南北にわかれて、たがいに仇敵視している地域もところどころにあるが、概して|融通無礙《ゆうずうむげ》でなんとなくうまくやっている。
日本人が否応もなく国境線を国家の運命線のごとくに意識させられるようになったのは、昭和七年に満洲国ができてからである。国際社会ではまったく認知されなかったが、日本帝国は満洲国を新生の国家としていち早く認めた。さらに満洲国に独立国家としての面目を失わせないため、関東軍は九カ国条約や国際連盟規約にそむかないように、いくつもの苦肉の策をとる。そして中国人自身の独立意志によって満洲国は生まれた、日本はそれに手をかしただけ、という大義名分をくっつけた。
その堂々たる一独立国の満洲国と日本は、その建国後に、「日満議定書」という条約を調印する。日本側はときの関東軍司令官武藤信義大将がサインした。武藤は初代の駐満大使をかね、条約はつまり国家同士の友好のとりきめとなる。
これには二つの密約が、しかも公然たる密約として、結ばれていた。
ひとつは満洲国居留日本人の諸権利の確認尊重であるが、重要なのは第二条である。
「日本国および満洲国は締約国の一方の領土および治安に対する一切の脅威は、同時に締約国の他方の安寧および存立に関する脅威たるの事実を確認し、両国共同して国家の防衛に当るべきことを約す。これがため、所要の日本国軍は満洲国内に駐屯すべきものとす」
要するに、満洲国を侵すものは日本帝国を侵すものにひとしい、であるから関東軍が満洲防衛をひきうける、と謳いあげた密約である。軍事的にみれば、ソ満国境はソ日国境にほかならなくなる。
ソ連は、満洲国建国にたいしては静観を表明し、あえて否定することはなかったが、国家として認めたわけでもない。満洲の大地はいぜんとして中国領とみている。となると、新生満洲国が国家としてあらためて国境線についてソ連と協議するわけにはいかない。結局は、それ以前に清国とロシアの間で話し合われ画定された国境線が、ソ満国境ということになる。
ところが、この国境線が、いたるところでまことに不明確なのである。たとえば平均一八キロごとに一個の石の界標が設置されたというが、長い年月のあいだに失われ、東部国境線にはわずかに十個しか残されていなかった。それも明らかに双方とも、自分の有利な地点へと勝手に動かしてあったりした。
もともとがそんなあいまいな国境線であるから、双方が兵力を展開して相対峙している、それだけでも避けることのできない偶発事件の起ることの想像はつく。当然のこと、諜報、謀略、偵察のやりとりが国境をはさんで激突する。国境侵犯、不法越境、河川上不法行為、拉致暴行など、ほとんど日常的に行われている。満洲建国いらい、国境での紛争事件はたえまなく、ふえるいっぽうである。
昭和十一年一五二回、十二年一一三回、十三年一六六回、これが関東軍調査による紛争事件の件数である。たいして、日満両国は明らかに非は向うにあると、ソ連に抗議書を提出した。十一年一二三(五九)、十二年一〇九(五二)、十三年一五八(五〇)(カッコのなかはソ連側がなんらかの回答をよこしたもの)。半分以上がなしのつぶて、まして解決など期待するほうが無理である。

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